역사

日本公文書が明らかにした '韓国の島' 独島

책향1 2016. 8. 17. 21:26

日本公文書が明らかにした '韓国の島' 独島

 

保坂祐二 世宗大 教授


1945年 8月 15日日本が太平洋戦争に敗れたし韓国は解放された。 あの時独島が韓国領土に帰って来た。 ところで日本は独島を日本領土で作るために連合国側に島名前は '竹島'で韓国名前はいないとずっと偽り報告をした。 名前が領有権の素材を現わすので日本は独島という名称を隠したのである。
独島の元々の名前は傘島であった。 しかし 1882年以後鬱陵島で移住した人々が独島をドルソムと呼び始めたしドルソムを漢字表記した石刀(石島)が 1900年 10月 25日頒布された勅令第41号に独島の名称で記載した。 1904年 9月 25日には日本軍艦ニタカが航海であるかどうかに '独島'という名前を最初でこんなに書いておいた。 '韓国人はこれを独島と書いて、本邦漁夫は減らしてリアンコドと称する。'
この資料は東京の国立公文書西関が所蔵した日本公文書だ。 日本は 1905年 2月名前も主人もない島と言いながら独島を島根県Oki島に編入したが実は 1904年 9月もう '独島'という名称があったしその主人がハングックイムを確認したのである。 一方 1904年当時独島の日本名前はいなかった。 それで独島をフランスが名付けた 'リアングクルロックス'を減らしてリアンコドと呼ぶと記録したのである。 この事実は遅くても 1904年 9月韓国が小さな岩島を独島と呼んで実効支配したし日本は独島を所有しなかったことを証明する。 日本は 17世紀に独島を呼んだ彼らの名前 'マスシマ'を忘れた状態であった。 すなわち当時日本は独島に対する領有権概念自体がなかった。 ニタカの航海おこるのは独島という韓国名称を確認してくれた事実を越して韓国が日本より先に独島を実効支配した国家という証拠になる貴重な資料だ。
ところで日本は敗戦後独島という名称の存在をずっと隠した。 アメリカ国務省文書 '限り · 仕事間リアングクルロックス(竹島あるいは独島)に対する論争'(1952年 2月 4日作成)には次のように記録されている。
'1947年日本政府は日本に接する小さな島々に対する研究を露した。 この研究は日本人がマスシマ、現在は竹島と呼ぶ島に対して昔からよく分かっていたと主張する。' この記録は日本政府が 1947年アメリカに領土主張をする過程で竹島には韓国名前がいないから韓国地ではないと言い張った事実を見せてくれる。 アメリカは 1951年 8月駐韓アメリカ大使であるゾーン蕪草に問い合わせする過程で初めに '独島'という韓国名称がゾンゼハムを確認した。
国際法的に地名はすごく重要な意味を持つ。 アメリカ地名委員会は株券が認められない地にはその所の主権を主張する国が付けた知名度認めない。 良い事例が尖角(尖閣)開き。 こちらを実効支配する国は日本だが中国と台湾はここに抗議して 'ディヤオウィダオ(釣魚島)'と呼ぶ。 アメリカは中国と台湾の主張を全然認めない。 アメリカ地名委員会の尖角列島ページにはディヤオウィダオという名称自体がない。 地名は株券と密接な関係がある。 そんな意味で 1904年 9月 25日の日本公文書では独島の主人がはじめから韓国だったのを見せてくれる貴重な資料であることである。
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